おはようございます。
む~です。
GatoBonito!!の黒猫のタンゴが頭から離れません笑
なぜでしょう笑
今日は昨日に引き続き、雪組「凱旋門」「Gato Bonito!!」の感想を書き綴りたいと思います。
本日語らせて頂くのは亡命中の外科医を演じている轟悠さんについてです。
パンフレット冒頭部分の柴田先生の作品紹介では
「人生の目的を見失ったジョアンと目的はあるけれど辿り着く方法を見失ったラヴィック」
というふうに二人のことを紹介されていましたが、凱旋門を見終わった後の私の目には
「人生の目的を見失ったラヴィックと目的はあるけれど辿り着く方法を見失ったジョアン」
という逆転した二人の紹介文が頭に浮かびました。
「冷たいよ」の一言だけでもかっこいい
先にこの台詞の素晴らしさについて語らせてほしい笑
「冷たいよ」この一声を考えた柴田先生はやっぱり天才だと思う。
宝塚の舞台って台詞が多くなりがちでそれ故に現実離れしているなと感じる舞台が多いんだけど、柴田先生の台詞はどこまでも無駄がなくシンプルで私たちの日常にすっと溶け込むような台詞が多いのが魅力の一つだと思っている。
勿論、ところどころ「ちょっと古臭いな」と感じられる言い回しはあるけれど、言葉のチョイスは抜群だ。
必要最低限のさりげない台詞で舞台を動かしていく柴田先生の美的センスを久々に見せつけられた。
「冷たいよ」という台詞についての素晴らしさを長々と語ってしまったが、この吐息に近いような短い台詞をこんなにかっこよくさりげなく話せるのはやっぱり理事の他にいない。
だいもんやさきちゃん、なぎしょーやあーさがこの台詞を言ったところを夢想してみたのだが、どれも理事ほどしっくりこない。
彼女の長年培ってきた男役芸がキラリと光った瞬間だった。
この台詞から始まる(と言っても過言ではない)「凱旋門」という作品では男役・轟悠の人間臭さが舞台全体を彩っている。
正直にいうと、理事の芝居は少し浮いて見えた。
同じ舞台にはいるけれど、一人だけ違う演技をしているようにみえたのだ。
序盤は「理事の演技はやっぱり古臭いなぁ」と感じていた。台詞を発する時の癖が強すぎたのがこう感じた原因だと思う。
しかし、彼女のお芝居を見ていくうちにその演技に知らぬ間に共感し、ラヴィックの壮絶な人生と自分の甘ちょろい人生を重ね始めていた。
古臭くて人間臭すぎてちょっと嫌悪感を抱いた演技なのに舞台に引き込まれ、共感し涙する。
なんでこんなことが起こったのか、もしかして理事のあの古臭い演技に私の中のどこかが共感して、うまくラヴィックと自分の人生を重ね合わせることができたのかもしれないな。。なんて帰りの電車でボーっと考えてみた。
枯れた歌声にラヴィックの人生を投影する
はっきり言おう。
理事の声は枯れていた。
全盛期の彼女のDVDを好んでみていた私でも「あちゃ~」と思ってしまうような声だった。
台詞を話している時も歌唱中でも高い声がどうしてもカスカスになってしまう。
瑞々しく生命力あふれる望海さんの歌に比べたら風前の灯のような声だ。
宝塚初観劇の人が彼女のかすれた声をきいたら「風邪でも引いていらっしゃるんじゃないかしら?」と思ってしまうような声だった。
ここまで酷評してきた理事の声だが、今回ラヴィックという役を演じる上ではこの声で正解だった。
ナチスの陰に怯えながらも復讐の機会を伺っている男。
何度も国外追放の身になりながらも復讐という希望のためだけに生きる哀れな中年男。
こんなラヴィックをだいもんが演じるにはまだ若すぎるし、溌剌としただいもんの声で演じられてもミスマッチだと考えた。
戦争で傷つき、人生に疲れた男ラヴィックを演じるには今の理事の声がぴったりだった。
もう一つ。
「いのち」を歌う時の理事の声に私は痛く感激した。
芝居中は人生に疲れきったような声でしゃべっている轟ラヴィックが、「いのち」の途中から物凄い声量で劇場を包み込む瞬間がある。
この瞬間にわたしはラヴィックの魂の最後の炎を見たような気がして涙してしまったのだった。
以上の実体験から私はラヴィックという役柄を作るうえで、轟理事の掠れた声は適任であり、正解であったと判断したい。
ジョアンは男たちの夢風船
ラヴィックを語るうえで切り離せない女性がいる、それがジョアンだ。
真彩ちゃん演じたジョアンについては後日書きたいことが山ほどあるのだが、今回はラヴィックからみたジョアンについて書きたいと思う。
ラヴィックからみたジョアン。それは憧れの女性像だったのではないだろうか。
ジョアンはラヴィック好みの女性に出会ってから僅か一週間でなってみせた。
これはジョアンが如何に空っぽな女性だったかを強く印象付ける場面だった。
この後ジョアンは念願だった女優デビューを果たし、贅を尽くした生活を送り仕事仲間(?)のアンリによって殺される。
一連を書くと「どこがラヴィックの理想の女性像なんだ。ジョアンはラヴィックをあんなに苦しめた魔性の女じゃないか」と思うけれど、彼にとってジョアンは夢風船だったのだと私は考えた。
ラヴィックの自由になりたいという気持ちはいつしかジョアンに託され、空っぽだったジョアンは彼を愛しながらも彼の夢見た自由な人生を歩み始める。
ジョアンの一連の振る舞いはラヴィックにとってつらい出来事のように描かれている。でも、そんな彼女を彼は求め、愛されたかったのだと思う。
こう考えたのは、ジョアンがアンリのDVについてラヴィックに相談したのに関わらず、ラヴィックが愛する彼女の訴えを無視したことだ。
あの時はラヴィックも念願の復讐を果たす絶好のチャンスだったし、単にジョアンのことを邪魔だと思った可能性もある。
でも、あの時理事の目を横切った迷いはしっかりこちらにも伝わった。
あの時、ラヴィックは一瞬でも「アンリのDVによってジョアンが自分のもとに帰ってくる」幸せを想像したはずだ。
彼がジョアンの死を望んでいたのかはわからないが、結果は彼の思い通りになった。
ジョアンはラヴィックの幸せを意図したかのように彼の腕の中で切なげに愛を呟く。
ラヴィックにとって最も愛されていると感じた時間だったに違いない。
死の淵で苦しむジョアンを安楽死させた時のラヴィックの安堵にも似た表情に少し猟奇的な愛を感じたのは私だけだろうか。
作中ではあくまでも「ジョアンはラヴィックを翻弄した女」として描かれているが、もしかしたら
「ラヴィックがジョアン=マヅーという女性像を創り、永遠に自分のそばに置いておきたかった」のかもしれない。
こんな愛し方しかできないなんて悲しすぎるが、これもすべて第二次世界大戦の荒波のせいだ。
ラヴィックにとっての「凱旋門」
物語の終盤、連行される前に轟ラヴィックが呟く
「凱旋門はもう見えない」という言葉にぐっとこみ上げるものがあった。
舞台上でひっそりと佇む凱旋門の存在は約1時間半の間に私の中で大きく膨れ上がっていた。
一観客の心の中で凱旋門という存在を大きく成長させるいままでの演出・・素晴らしい。
凱旋門。
それはラヴィックが理想の女性として愛したジョアンであり、人知れず行った復讐の監視者だった。
思うに、凱旋門は彼の生きる希望そして生き様を見守り続けたマリア様のような存在だったのではないだろうか?
そんな凱旋門が見えなくなる物語終盤、彼は全ての希望と夢を失う。
そしてジョアンの優しい声が脳内でこだまし、パリ中から聞こえてくる「いのち」の賛歌を背中に受けながら一筋の涙を流して警官のもとに向かう。
今まで逃げてきた人生に向き合うように「パスポートなし」と警官に告げる轟さんの横顔は何かに解き放たれたような。。そんな横顔だった。
轟悠の経験すべてがこのラストに向けてベクトルを向けた瞬間を目撃した気持ちになった。
3000文字で語りつくしました笑
轟ラヴィック編、いかがだったでしょうか。
考えれば考えるほど轟さんの小芝居を思い出してするすると疑問が紐解かれていく。
そんな感じでした。
ハイメとユリアに対して轟ラヴィックが抱いていた思いについても書きたかったのですが、長くなりすぎるのでこの部分は自分の心の中にとどめておこうと思います。
こんなに長い記事を読んでくださった方、本当にありがとうございました。
「ジョアンは男たちの夢風船」という部分に関しては私が深読みしすぎているかもしれません。
皆様のご意見も是非お聞かせくださいませ。
でわ~
takarazuka takarazuka
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