宝塚の観劇感想 星組

愛月ひかるの死は絶対見てほしい!(ロミジュリ初日感想)



おはようございます。
むーです。

今日は愛ちゃんの死について語ります。
B日程のBlu-rayを出させちゃうほどの人気を博したとも言える愛月ひかるの死。

最初に言っておくと

絶対絶対絶対!!!
星組ロミジュリB日程は見た方がいい!!

見ないと後悔する!!

愛月ひかる『死』のビジュアルについて

まずは愛ちゃん死のビジュアルから語りましょうかね。

 

舞台写真も出ていないため、なかなかそのお姿が確認されていない愛ちゃんの死ですが、初日のお写真でとても綺麗に撮れているのがあったのでツイートごと掲載させていただきますね。

 

今回の愛ちゃん死のビジュアルは予想を遥かに超える大成功!
このままトート行けちゃうよ!ってくらい死のイメージを具現化できていたと思います。

お衣装が素晴らしいのはもちろんですが、まず特筆したいのは鬘!!

ストーレートヘアーの銀髪で行こうと決めたのは誰ですか?教えてください。
感謝の気持ちを伝えさせてください。

 

愛ちゃんの死は毛先まで含めて死だった。

 

こう言い切れるほど今回の鬘がとてもよく似合っていました。

死の繊細な表情の変化からダイナミックな動きに合わせて、まるで髪も命を宿しているかのように見えました。

 

死の毛先に触れたら魂を吸い取られてしまうのではないか。。そんな緊張感さえ持った髪の毛。

 

愛月ひかるの死を完成させるために大きな一役を買ったことに間違いはありません。

 

次にお話したいのが愛月ひかるのスタイルの良さ!

 

これは持って生まれたものなので他人が真似できるようなものではありません。

 

立っているだけで圧倒的な存在感を放ち、両腕を大きく広げて世界を操るような動きをすればまるで舞台全体が彼女の掌で転がって見えるかのようなスケールの大きさ

 

手足の長さはもちろんですが、男役 愛月ひかるの持ち味である背中の広さ!これが最大限に生かされていました。

 

ラスプーチンの時も思いましたが、愛月ひかるに““世界を裏で操ってるんじゃないか?“系をやらせると必ず成功するのは彼女の男役としての立ち姿の美しさが功を奏しているのだと思います。

 

それでは以下から私の愛月ひかる「死」に対する考察を深めていきます。

 

【考察】愛月ひかるの死は退屈していた

 

愛月ひかる死は退屈していた

 

全編を通して登場人物たちの運命を操っているというよりかは、退屈している印象を受けました。

意味ありげに視線を配るものの、手すりで遊んでみたり(この手すり遊びが色気に溢れていてうぎゃぁぁぁぁぁlとなります←)なにかを潰す真似をしてみたり。別の霊廟を覗き込んでみたりと意外にやってることはおちゃめ。

 

ただそこには圧倒的な雰囲気とオーラがある。

さすが愛月ひかると思わせられるのはここでしょう。

 

実際、死が機敏に動いたり何かに反応するのは誰かが死ぬか、その前触れのみ

 

死にとって人間の死は食事以外の何者でもなく、その前後の人間の争いや感情などは暇つぶしには値するけど興味があるようには全く見えなかった。

 

演出的には死がロミオを嘲笑い、甚振っているようなシーン(「僕は怖い」等)もあるけれど、それも結局のところ死にとっては『早く魂食べたいなー(早く死○でおくれー)』くらいのノリで遊んでいるだけであって、あやっつている感じはなかった。

 

なので私からみた愛月ひかるの死は一貫して退屈そうで人間にはこれっぽっちも興味がなかった。

 

そんな死が初めて動揺を見せたのが、最後の霊廟のシーンでした。

 

【考察】死が見つけた愛

ロミオとジュリエットのパンフレットを読むと、冒頭の小池修一郎先生の挨拶文の中に『愛と死の相克』という言葉が出てくる。

 

今までの宝塚版ロミジュリでも愛と死の相克に関して同じように描かれてきたし、何も新しいものではない。

でも私は開演前に読んだ『愛と死の相克』という言葉が観劇中も頭から離れなかった。

 

なぜ"相克".なのだろう?
愛と死は本当に対立(矛盾)するものなのだろうか?
ロミオとジュリエットと言う話は本当に愛が死に打ち勝つ(死が愛に負ける)物語なのだろうか?

 

こんな疑問を持ちながら私は死と愛の一挙一動に目を配ってみた。

 

そこで驚いたのが霊廟のシーン。

 

人々が「ロミオとジュリエットの死は愛を成就させるための崇高なものだ。彼らは死ぬことで永遠の愛を手に入れた」と歌い出したところで、今まで高笑いしていた死の表情が変わる。

 

なに馬鹿なこと言ってるんだ人間は!?

 

そんな動揺が一気に死の表情を変えていく。

 

死が愛を成就させただと!?そんなことあるはずがない。人間の死は俺にとっての食事でそれ以上でも、それ以下でもない。ましてや愛なんて、、冗談じゃない。

 

そんな動揺を抱えながら、死はロミオとジュリエットが出会う天国の場面で愛との対面を果たす。

 

ロミオとジュリエットの結婚式以外で愛と死が互いの視線を突き合わせることはない。

 

久しぶりに向き合った二人は静かに、でも力強い眼差しで互いの手を握り、向き合う。
その瞬間、死の表情がふと柔らかくなる

 

笑ったり、微笑みを浮かべたりしたわけではない。小さな花を自分の手のなかに見つけたような暖かさが顔に広がるのです。

 

徐々に愛と絡み合い、背後から腕を絡め取られた時、死が安らかな顔をしているように見えました。

まるで『嗚呼』と声が漏れそうな表情に見ているこちらがうっとりとしてしまった。

 

負けでもない。
勝ちでもない。

 

お互いがお互いを見つけた。

 

そんな安らぎを愛と死という存在から感じ取りました。

 

【考察】愛月ひかるが表現したかった『死』

ロミジュリの死はたびたび『支配している』と表現される。

 

死という役の存在の大きさ、そして演出を考えればそのような受け取り方は決して間違いではない。

 

しかし、あえてここで個人的な意見を述べるのであれば、私は『支配している』という言葉に異論を唱えたい。

 

愛月ひかるの死は『支配はしてない』
死は私たちの日常に常に存在し、死に何かを操ろう、支配しようという概念はない。

 

支配しているように見えるのは観客側があの物語の登場人物たちに感情移入した結果、そう見えているだけに過ぎない。

 

冒頭でも書いたように、客観的に見れば愛月ひかるの死は退屈していた。

死はいつも私たちの身近にある死を待ち望んでい退屈している、空気のような存在に過ぎない。

 

時には勢いよく私たちを襲い、あっけなく去っていく。

 

そんな緩急つけた演技で愛月ひかるは私たちの身の回りにある死を表したのではないでしょうか?

 

ひとまずここで愛月ひかるの死に関する考察は終了です。

 

次回は綺城ひか理くんについて!

 

次回はあかちゃんベンヴォーリオについて語りたいです!

しばらくロミジュリの感想が続くと思いますが、よろしくお願いします。

本日も最後まで読んでくださり、ありがとうございました。

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